高知県土佐山にあるNPO法人「土佐山アカデミー」事務局長の吉冨慎作さんは、なんとも謎に包まれた人だ。『龍馬街道』というファンサイトを立ち上げたと思ったら『幕末ラムネ』というヒット商品をファミリーマートで販売してみたり、外資系広告代理店でインターネットの戦略を練っていると思ったら、スパッと辞めて高知に移住したり。『世界最速のそうめん流し』をJALの流体力学エンジニアと企画したり。そんな吉冨さんの言葉はさらに不思議だ。「才能の無駄遣いをする」「オモシロガリスト」「課題は資源」など、一筋縄ではいかないパンチラインが土佐山アカデミーのホームページに並んでいる。これは、一から話を聞かなきゃ分からない!覚悟を決めて幼少期から掘り下げた LONG&DEEP INTERVIEW です。
聞き手:永野広志(Paul.)
ガキ大将の二番手だった
──どんな子どもだったんですか?
山口県の下関で生まれました。両親は会社員をしながら茶道や主婦もやりながら書道など、人間の仕組みと自然の哲学というかなにかそういうバランス感覚を持った人。そのせいか、割と自由奔放に育てられましたね。でも一応長男なのでお利口さんも得意みたいな感じでしょうか。幼稚園くらいからずっと「二番手」みたいなポジションでした。トップではなく、二番手で戦略を練る、みたいな。そのポジションのおかげで、優等生ともヤンキーともオタクとも接することができる越境的な動きをしていました。
──自分の立ち位置の理解が早かったんですね
そういうことに興味がある子どもでした。人と人の間で動いて、みんなが仲良くなったりするのが好きで。生存戦略的にも、独自のポジションをとりたかったんです。
──どんなことに夢中になりましたか?
とにかく分解するのが好きでした。家電とか。しくみがどうなってるのかどうしても理解したくて、動いている掃除機のコードをハサミで切ったこともありましたね。おおいに感電しましたが(笑)。電子工作をしたり、アマチュア無線の免許をとったり、メカ系統に夢中になりました。
──電子工作が好きだったんですね
それも、普通につくるだけじゃなくて、「いたずら」に使うのが好きでした。
──いたずら、ですか?
例えば、先生に黒板消しを落とすという古典的ないたずらにしても、遠隔でコントロールしてバレないようにするとか、いわゆるピタゴラスイッチ的な、からくりのあるものが好きでしたね。
──ほかにどんないたずらを?
当時ミニ四駆の軽量化が流行っていたので「靴の軽量化をすれば足が早くなるんじゃないか」と思って靴底をカッターで大胆に削ってみたんですが、まったく走れなくて…メーカーさんよく考えて作ってるんだなぁと。買ったばかりの靴を切ってしまったので親に見つかったらめちゃくちゃ怒られると思って、 坂道を自転車で下る際にわざと靴でブレーキかけて靴底を削ろうと、必死になってたり。まぁいろいろやりましたね。
──怒られたら反省はするんですか?
アプローチがよくなかった、という反省だけしていましたね。もうちょっとうまくやれた、という。
──行動の善悪じゃなくて、巧拙で捉えていたんですね
基本的にはふりかえって、構造を捉えて、次のことに応用していくっていう発想でしたね。その中で大人を動かすスイッチみたいなものも覚えていきました。研究のためにやったと言ったらいたずらが公共性を帯びたプロジェクトのようになったり。つまり、そのいたずらから何が学べたのかを明確にすることが重要だと気づきました。
ホメられたくて行動が変わる
──かなり問題児だったんじゃないですか?
確かにそうかもしれません。でも一方では、大好きな先生にホメられることを追求してもいました。
──そこは二面性があるんですね
小学校4年生の時の先生が変わっていて、なんでもゲームにするのが上手な先生でした。今ならゲーミフィケーションと呼ばれるようなことですね。1年間に700枚の学級通信を出す先生だったんですけど、何か勉強でも遊びでもチャレンジすると、その通信に載るんです。子どもたちはそのためにお手伝いをしたり、ゴミ拾いをしたり、読書感想文を大量に書いたり、授業で発表したり頑張りたくなる。
──その中で、吉冨さんは何を?
例えば、友達と日本のおみくじの7割をつくっている山口県の神社(旧鹿野町)に、事前にアポをとり、現地まで列車で行き、インタビューして、それをレポートにまとめたりとか、そういうことをしていました。
──急にいたずらから真面目なベクトルにいってますね
僕にとっては、みんなをびっくりさせるという意味では、いたずらの延長線上にあったので、楽しくてしょうがないという感じです。。 牛乳のフタをメンコにするのが流行っていたんですけど、いろんなデザインがあることに気づいて、企業に手紙を書いてフタを送ってもらったりとか。
──行動がいちいち大人びてますよね
そこはマセていたのかもしれません。親には「言い訳の天才」と言われていました。怒られそうなことにはあらかじめ言い訳を用意しておくんです。トイレットペーパーを校舎の窓のダストシュートから落として遠くに飛ばす遊びをする時には、「長さを確かめる実験だった」と後で言い訳してみたり。
──ある種ディベートのような、知的ゲームとして楽しんでいたんですね
ものごとに意味づけすることで、価値が変わったり、人の見る目が変わる。認識が変わるということが楽しかったように思います。でも、思い返すと、へそ曲がりだったし、逆張りばかりしていたし、ひねくれてますね。
NASAでロボットアームをつくるために高専へ
──その後高専へ進学されました
スペースシャトルのロボットアームに憧れて、将来はNASAでアレをつくろうと思いました。そうすると、日本だとJAXAに入るのが近道。そのためには東工大あたりから就職するのがいいらしいと。ふつうの高校から受験するより、高専から編入する道がある。そうやって逆算して、高専を選びました。
──めちゃめちゃ戦略的ですね
道筋とからくりを考えて動く癖があって。でも入学してみて愕然としました。数学がぜんぜんできなくて。ある日、友達に言われたんです。「この問題でなんで100点とれないのか分からない」って。その時に気づきました。自分が計算するんじゃなくて、計算できる人と一緒に動けばいい。企画・プロデュースこそが僕の生きる道だと。
──ここでも、全体把握と自分のポジショニングが適切
でも、このころはかなり面倒な人間だったと思います。反体制というか、学校の言いなりになることはダサい思っていたし、ちょうどグランジが流行っていた頃で、バンドをやったりするんですけど、みんなが楽しくなることをする、みたいな発想ではなかった気がします。
──何か思い出は?
試験から逃げて、カブで長崎まで行ったことがあったんですけど、そうすると通知簿に成績がつかず「ー」が記されて、それを見た両親がバイト先に泣きながら現れる、みたいな事件がありました。まったくムダなことしかしてないな、さすがにこのままじゃカッコ悪いなと思い立って、何かに反抗するだけの態度をガラっと変えましたね。できることをやろう、と。
──反抗期の終わりのような
それでデザインとプログラミングに興味を持って、当時流行っていた「サイン帳」(卒業前にみんなから書いてもらうノート)をWEBでつくろう!と思い立ち、htmlでつくりました。その過程で、イラストレーターやフォトショップなどのソフトの使い方を覚えていって。まだ誰もインターネットにつないでいなかったので、CD-Rに焼いて配ったりして。
──小学生の頃のような、みんなが楽しめること、ある種公共性に回帰していったんですね
今覚えばそうなのかもしれません。それでデザインの道に進もう、と思い、福岡のデザイン事務所を片っ端から受けていきました。全然受からなかったんですが、10社くらい受けてるとなんとなくデザイン会社が求めているものが分かってきて、地元である下関のデザイン事務所の面接の最後に勝負をかけました。その日、21歳の誕生日の前日だったので「明日誕生日なので、今日中に仕事を決めたいんです!」とアピールして、入社が決まりました。後日なんで採用してくれたんですか?って社長に聞いたら「君、目つき怖かったもん。刺されるかと思ったから入れた。」と言われましたが。
インターネットを武器に広告の道へ
──戦略的でありながら、道の選び方が自由で面白いですね
どの道を行っても辿り着ければいいというか。高専の技術が活かせなくても、デザインや企画でNASAに関われるかもしれませんし、極端な話、土佐山の地域課題が月面基地の建設に役立つ、というつながり方もあるかもしれません。
──そこから本格的にインターネットの世界へ?
インターネットはやりたく無かったんです。せっかくグラフィックデザイナーになろうとしているのにちょっとパソコンに詳しいからってできることではないですよと。」「福岡で月???万円稼げるならやっていいよ」と言われ、その会社で8年半くらい働きました。人数も1人から20人くらいに増え、その会社の役員にもなり。
──順調だったんですね
でも、挫折もありました。コミュニケーション、責任、情報共有など、社会人としての基礎を、年上の部下を持つことで覚えていった期間でした。その時期は一番きつかったです。その中で、もうちょっとクリエイティブを理解したい、と思い、アートディレクター講座、コピーライター講座に通い始めます。そこでBBDOという外資系広告代理店の方が講師に来ていたつながりから、転職することになりました。
──道を変える時に躊躇がないのが気持ちいいですね
道を変えているようで、実はつながっているのかな、と思います。その時は「コピーがある程度できて、インターネットに詳しいやつ」が求められていたこともありましたが、つまりインターネットという領域で、みんながびっくりするイタズラを考える仕事だなと。
──広告の世界はどうでしたか?
広告代理店での五年間はほんとに刺激的な毎日で、あるものを広告することはもちろんのこと、まだないものをコンセプトから作るといった、プロモーション・ブランディング・商品開発などたくさんのことを学ばせてもらいました。そんな中で上司から、「仕事以外で何か面白いことをやらないと、仕事で面白いことできないぞ!なんかやれ!」と上司に言われるんです。
──無茶振りですね
それは否定しませんw 考えるなかでふと自分の名前のルーツを思い出しました。「慎作」というのは、三好慎蔵と高杉晋作の2名からとったもので、両者とも坂本龍馬を助けた志士だったんです。また、龍馬は長州と薩摩を結ぶ「人と人の間をつなぐ」人であり、どこか共感していました。そこで、龍馬のファンサイト「龍馬街道」というサイトを立ち上げました。
──当時は個人がサイトを立ち上げるのは珍しかったのでは?
そうですね。テキストサイトのようなものがありましたが、公式サイトっぽいものってなかったので、勝手に公式感を出すのに工夫していました(笑)。当時「龍馬伝」の公開も決まっていて、時代の追い風もありましたし。
──どんな工夫を?
例えば、NHKのプロデューサーが長崎に講演に来た時に待ち伏せて、声かけて、写真をとって、簡単にインタビューをして、なんとなくお墨付きを得たり。その写真を元に、坂本龍馬記念館に声をかけたり、日本郵政に働きかけて切手をつくったりと、わらしべ長者的に話が大きく転がっていきました。その際にも、実は龍馬は手紙の達人である、という史実を説得の材料に使ったり、高知県知事にも先に挨拶をしていたり、と、大人の動かし方・スイッチの入れ方を意識していました。
──これまでのいたずらや、人と人をつなぐ動き、学んだ技術などが活きていますね
最終的には、長崎のラムネ会社といっしょに『幕末ラムネ』という商品を開発して、ファミリーマートで発売したりもしました。龍馬は亀山山中で初めてラムネを飲んだ、という説があったので。
──意味をつけて、人を動かす。つなぐ。吉冨さんらしさが出ています
みんなが楽しめるルールをつくれ
──その後の動きは?
東京でコンテンツづくりのレクチャーをすることになるのですが、そこでもまた「役割を終えたな」と思い、少し広告から離れたくなってきていました。人のお金で人のモノを宣伝していることに違和感を覚えはじめて。
──龍馬街道というコンテンツと、クライアントがいる広告制作にはギャップがありますね
龍馬街道は、実はお金がまったくかかっていません。書道家である母に題字を書いてもらい、それをカッコいいと言ったデザイナーに名刺をつくってもらい、その名刺が欲しいと言ったWEBデザイナーにサイトを立ち上げてもらいました。それって、無償の奉仕のように見えて、何か名前のない価値をみんなで共有できて、楽しんでいたんだと思います。自分の好きなものを、自分の信用だけで、どこまでつくれるか。そういうことがやりたくなりました。
──そこに資本が介在しないのが興味深いです
みんなが楽しめるルールをつくることができれば、もしかしたらお金がなくてもいろいろなことができるかもしれない。そんなことをふわっと考えていたら、ふとした縁で、土佐山の人たちとの出会いがありました。ひろめ市場でたくさんご飯をごちそうになったりして、なんか居心地のいい場所だなって思って。「そこまで好きになってくれるなら住民票だけでも移してみたら?」と声をかけていただいて、それは面白い、とすぐに住民票を移しました。
──そして土佐山アカデミーへ
事務局長募集のサイトを見て、飛行機の中で自撮りして、書類つくって、すぐ応募したら決まりましたね。びっくりしました(笑)。
スーパースターと猛獣使い
──改めて土佐山アカデミーに所属したきっかけは?
広告代理店で2年間かけて準備していた仕事が、3.11の震災でなくなってしまったんです。停電や自粛などで、広告はまったく出番がなくなり、とても脆弱な基盤の上で成り立っている産業だったんだなと思いました。
──あの時期は、広告は無力でしたね
電気や、インターネット、プラットフォームがないと成立しない広告とは違って、もっと地に足がついた、フィジカルな仕事がしたいと思っていました。そこで土佐山アカデミーの事務局長募集を見かけて、応募したんです。自分のアイデアや信用を試したいという思いもありましたし、事務局長を外から募集するなんて、よっぽどおもしろい会社か、それともよっぽどバカなのかと思って(笑)。
──他に地域はいろいろある中で、なぜ土佐山に?
やはり人の魅力ですね。当時の土佐山アカデミーにはすごい人たちが集まっていて。パタゴニアの日本支社長だとか、海洋学の研究者だとか、ドイツで学びスイスで働くデザイナーだとか、スーパースターに囲まれて、自分に求められているのは、事務局として成立させるための「猛獣使い」の役割だなと感じました。
──所属して最初の期間はどのような課題がありましたか?
クリエイター達の集まりなので、事務仕事があまりきっちりできていないのが問題でした。NPO法人なので、そのあたりの会計や報告ができていないと補助金がおりないんです。外部への支払いを滞らせるわけにはいかないので、自分たち職員の給料が振り込まれない時期もありました。
──それはいきなりハードな環境ですね
また、当時の事業は「サステナビリティを学ぶ」プログラムの運営。3ヶ月泊まり込みで体系的に学んでいくという、世界にも2箇所くらいしかない、稀有なプロジェクトでした。ただ、当初は100%出ていた補助金も、2年目は80%、3年目は50%と段階的に減らされていく中で、お金を稼ぐ必要が出てきました。そこで、個人向けのワークショップを何度もやって疲弊して、当初のビジョンである「サステナビリティ研修」がやりたいのに本末転倒じゃないかと、一時は解散の話まで出たんです。
──よく持ちこたえましたね
解散するのではなく、元のメンバーには理事になってもらって、その代わりに私が事務局長として自由にやらせていただく、という形式に落ち着きました。5年リースで契約している車や事務機器もあるし、実は地域の方々にお金を借りて運営していたというのもあって、もう土佐山アカデミー単体の話ではなくなっていたんですよね。
──地域の方にも求められていた?
もともと、土佐山というのは、自由民権運動が盛り上がった地域でもありました。「自由は土佐の山間にあり」という言葉があるくらいで。山獄社という政治結社に2000人が集結したこともあるんです。当時から、学びを大切にしてきており、外から入ってくる者への寛容度も高かった。そういった土地柄もあって、「土佐山アカデミーは残した方がいい」と思ってもらえたのは幸いでした。住民のみなさんに説明して、お金を用意していただいた時は、年甲斐もなく人前で泣きましたね。
地域になじんでいくとわかること
──地域になじんだなと感じた瞬間はありますか?
やっぱり、「役割を与えられた時」ですかね。「ちょっと●●さん家行って、アレとってきてくんない?」とカジュアルにお願いごとされた時とか。あとはPCの設定をしてあげた時に「秋に米できたら渡すわ」とか1年単位での貸し借りの関係性ができたり。
──地域の一部として、持ちつ持たれつになっていくのが大切なんですね
特に、食物などの「体に入れるもの」って特別だなと思っていて。いつも野菜をもらっているのに何も渡せる作物がないので、コーヒーキットを持ち歩いて、コーヒーを淹れてまわってましたね。
──土佐山の人たちの特徴は?
何事も「オモシロ」がるところですかね。例えば台風でビニールハウスが飛ばされるような災害の中でも、「じゃあダムをつくろう、どうせなら、黒部ダムを見学して同じようなものをつくろう」だとか、小学校が廃校になり、人々の集まる場所が必要になった時にも「どうやら海外には、オーベルジュという、泊まれるレストランがあるらしい。それをつくろう」となったり、外の風を取り入れて、楽しく新しいことに挑戦していく気風があるんです。
──土佐山アカデミーのバリューにもなっていますね
はい。オモシロガリスト®︎という言葉を大切にしています。
課題を資源に変えていく
──どうやって土佐山アカデミーを立て直してきたのですか?
サステナビリティ研修は自分にはできなかったですし、最初は個人向けのワークショップをしていたのですが、それにも限界がある。だから、企業向けの研修をしようと思い、研修ができる人材にアカデミーに入ってもらいました。
──企業研修にも事業を広げたんですね
土佐山の課題を「資源」と捉えて、活用していくことで、日本中の企業に学びを提供することができる。それは、地域のためにもなるし、アカデミーのためにもなる。「三方よし」な状態になるなと思いました。
──最初の研修を覚えていますか?
実は、最初は県庁職員向けの研修から始めました。空き家問題に向き合っていた時に、空き家から出るゴミには補助金が出ないことなどがわかりました。リノベーションする費用は出しても、ゴミ処理は補助金の項目に入っていない。でも実際は、住んでいて亡くなられた家は家具から何から全部残っています。それらのゴミ処理が空き家問題の中心なのに、行政の人は現場を知らない。だから、補助金の項目が現実とそぐわない。そのようなことを県庁の方と話していて、研修が実現したんです。
──最初は行政だったんですね
そこから、紹介していただく形で、富士通さんなど、大企業の研修につながっていきました。何度かやっているうちにワークショップの呼吸もつかめて、事業が軌道に乗った感触がありましたね。
世界最速の「流しそうめん」をつくれ
──印象的な仕事は?
JALの流体力学の研究者と組んで実施した「世界最速そうめん流し」でしょうか。土佐山地域の「竹林が拡大しすぎているのをなんとかしたい」という課題を遊びながら学びに変えていくために、「エンジニアにもっと脚光を浴びさせたい」JALを巻き込んで、「急傾斜で効率の悪い棚田」を活かしてイベントにしました。話題にもなって、大成功でしたね。
──関わる人すべてがハッピーになれる施策ですね
「三方よし」を常に意識しているので、この事例はうまくいってよかったです。土佐山は学びの村でもあります。だから、マジメな課題解決だけじゃなくて、遊んでいるうちに学んでいる。遊びと学びの境界線をなくしていくのが大切だと考えています。「才能の無駄遣いする」とよく言っていますね。
──企業研修以外にも取り組んでいることは?
土佐山に来ていただくだけではなくて、県外に出張する企業コンサルティングもしています。これは「課題が資源」の土佐山だからこそ得られた知見を、県外に持っていく動きなので、「土佐山の宣伝」のつもりで取り組んでいます。「学びの村」をもっと盛り上げたくて。
お手本は「薩長同盟」
──大切にしていることは?
「関わる全ての人の未来を、オモシロいほうへ」というのがミッションなのですが、土佐山アカデミーを媒介にして、土佐山の人々と触れ合って、関係してもらう。その結果、オモシロがることが身についていく。そんな化学変化を楽しんでいただければ、と思っています。
──地域の人々と関わる際の注意点は?
薩長同盟の時の坂本龍馬の動きがお手本です。あの時、長州藩は武器が、薩摩藩は米がほしかった。お互いの「利」をきちんと確保することで、手を結ぶことができる。そうめん流しについても、地域と企業とアカデミーの利がうまく一致して、成功につながりました。地域の課題に対して、しっかりと利があるように、学びをつくっていければと思います。
──だけど、遊びが大切?
やはり、それぞれのメリットだけじゃなくて、よりオモシロいものに人は集まります。その求心力を信じて、遊びと学びを大切にするオモシロガリスト®️をもっともっと増やしていきたいです。
──ありがとうございました!
自分でもいい振り返りになりました。ありがとうございました!
聞き手:永野広志(Paul.)